音楽

 

 小学校6年生の頃、ビリージョエルの”ストレンジャー”がラジオから流れてきた。

あれは1977年。

 

ラジオのプログラム名は『ダイヤトーン ポップス ベスト10』

シリア ポールがDJだったこの番組は多分、後にも先にも無いほどよくできたラジオ番組だったと思う。あれが僕の洋楽への入り口だった。

 

自分の部屋の大きな窓を開け、屋根の上に登り雲を眺めながらシリア ポールが紹介する今週のベスト10を楽しみに聴いていた。

1970年代は、20世紀全体を振り返って見ても音楽的に豊作の年で、個性あるミュージシャンが様ざまなジャンルの音楽を提供してくれた時代だった。

 

 

 


 

Eaglesの「Hotel California」、Andy Gibbの「I just want to be your everything」、The Emotionsの「best of love」、Thelma Houstonの「Don't leave me this way」

KC and The Sunshine Band の「i'm your boogie man」............... 

 

1977年を見るだけで快挙にいとまが無い。

 

僕は晴れ渡った高い空を眺めながら『ダイヤトーン ポップス ベスト10』の放送時間である14:00-15:00時の間、日本の家の屋根に寝転がって世界を旅していた。

ラジオを聴いている時、僕の左手にはポテトチップス。右手にはコカ・コーラがあった。「ホテル カリフォルニア」のレコードを買ったのもこの年の秋だったと思う。

 

それから20年後の1997年。32歳になった僕はカリフォルニアへ仕事で飛び立った。時間的余裕が出来た、ある晴れた夕方。僕は車でサンセット ブールバードにあるとあるホテルへと向かった。このホテルの名は「The Beverly Hills Hotel(写真)」。僕はこのホテルに用事があったわけではなく、ホテルがあるこの場所の、とある場所に立って夕景を眺めたかった。ただそれだけの理由でここへ出かけた。

 

 

 


僕が12歳だった1977年の秋に買った「ホテル カリフォルニア」のレコードジャケット。そのジャケットにはホテル(らしき建物)と夕陽とパームツリーが写っていた。

実はこのレコードのタイトルにある「ホテル カリフォルニア」は架空のホテルで、実際はこのザ・ビバリーヒルズ ホテルでその撮影が行われていた。

 夕日が沈むのは早い。20年の歳月を経て訪れたレコードジャケットの場所でその景色に浸った時間はわずか20分にも満たない。それでも僕はそこを訪れることが出来た。音楽は聴くだけのものではない。データ化された音楽が今や世界中を飛び回り、you tubeでもspotifyでも携帯電話にあるappから楽々手に入る時代になった。その音楽が生まれた時代の空気や背景を描く事なく音(ミュージック)だけを摘んで聴いてもその楽しみは本来の半分ほどしかない。これはどうしようもない事だ。僕にとっては、まだこの世に産まれていない1950年代の素晴らしいジャズを聴いてもその時代の空気など知る由もない。それでもジャズはものすごく素敵な音楽なのだから、きっと1950年代に世の中に生きていた人たちにとってジャズは僕が思う以上に素敵な音楽であったに違いないと思う。

 

でも古いレコードや昨日まで使っていたCDには音楽にまつわる背景が付いている。擦り切れるほど聴いた音楽のレコードジャケットの風景を尋ねるだけで、旅に出る理由はできる。

 

音楽はいつも僕たちをどこか遠くへ運んでくれるのだ。

 

 

 

 

 

 

瑣末な日常

 

外出自粛が続く中、日々を淡々と過ごすうちに、もはや12月を迎えた。

2020年も今年を振変る季節となり、1年間の出来事を思い返せば今年は一体何をしたのか?が思いだせない。そんな1年だった事が思い出された。

多分、戦後最悪の経済状況であったこの半年間をなんとかやり過ごしていくうちに思ったのは、「慣れ程怖いものはない」と言う実感だった。

コロナ禍で生じた閉塞感、自粛感、停滞感、諦め感。世間はこのようなネガティブな気分が今もまだ蔓延している。この空気に感染し「まぁいいか」「しょうがない」

と言う事に徐々に慣れはじめると瑣末な日常は、停滞しはじめる。とは言え「この機会を使って何か?」と不断の努力を怠らない前向きの人は多分大勢いる事だろうが

この機会がいつ終わるのか、はたまた続くのかが見当がつかない。と言う五里霧中な状態になんともやるせ無い気持ちを持ち、また見えない未来にやる気が喚起出来ない忸怩たる思いを持つ方も多い事だろうと思われる。

 

これまで世の中は、必要性で動いていた。

 

そのため企業は必要な物を準備しそれを提供して営んできた。ところが必要性の度合いが「必要最低限のもので良い」と言う状況になった。

ただ暮らしていくのに必要な物があれば、とりあえずは良い。この状況は残念な事に(コロナ以前の)今の若者の行動様式に酷似している。コロナによって、「暮らしていくのに必要なものだけあれば良い」と言う考え方と社会環境の変化によって厳しい状況下にある今の若者の生活意識がここで同化した。

 

現代社会は携帯電話とコンビニエンスストアーがあれば、人類はそこそこ面白おかしく暮らせる時代なのである。

食べ物を調理することも無いので食器も不要。洗う必要も無い。便利な社会になったものだ。僕が一人暮らしをはじめた学生の頃を思えば夢のような暮らしにも思える。

映画も僅かな金額で見放題。音楽も聞き放題。Hな動画も無料で観れます。きっとコロナ禍が終わり、世の中が恒常化してくればある程度昔の暮らしに戻ることはあろうが、概ねこの”し放題”と言う暮らしに慣れてしまったらそこからは抜けだせないであろう。

 

料理を作るのは中々手間がかかることだけど楽しい。またそれを盛るお皿を見て周り買ってきて盛りつけるのもまた楽しい。洗い物はホネが折れるが、毎日の生活を整えている実感を感じられる。部屋の掃除やトイレ・風呂の掃除。洗濯やゴミ出しと言った日常のルーティンワークは瑣末な日常ではあるが、それをしている事で自分の生活がここにある事を意識させてくれる。ランニングした後のシャワーの心地良さは身体が整った事で得られる快感。部屋がきれいになれば部屋が整った事によって得られる快感がある。僕はコロナ禍の状況で最も心が良い気分になる方法として何かを”整える事”と言う結論に至った。面白い事に整えるとそこにある種の快感が生じるのだ。

美味しいお気に入りのコンビニ弁当を毎日食べても、面白い傑作と言われる映画を長時間眺めても、最初にあった感動や興奮はもはや日常化されたとたんに大きな快感ではなくなってくる。きっと心の感情受信機にある起伏したヒダに”面白い事”や”便利さ”と言うシャワーを浴びすぎて、皮膚が鈍感になってしまったためだ。

 

ホネが折れる事。例えばコーヒーの豆を砕き、ドリップして淹れたり、大根を大根おろしで擦ってみたり、面倒臭いレコードをいちいちひっくり返して順番通りに聞いてみたり。自分で手間暇かけてやった事を人は無駄にしたく無い生き物なので、出来上がったコーヒーの味と香りに意識を持って行ったり、大根の味をしっかり味わったり、レコードの音楽に集中したりする。そうするとそこにふつふつと快感が生じる。もちろん美味しいコーヒー豆や大根。そして良いリソースのレコードでなければそれは得られないわけだが。

 

瑣末な日常をちゃんと過ごすと生活は整う。生活が整うと「心が整う」。まずは玄関の履物を整える事で整えは始まります。

どうぞ宜かったら是非やってみてください。全て無料です。そして整えて行くうちに気づく事があります。それは家も家具(インテリア)も車も洋服(ファッション)も全て”整え甲斐がある物を所有する事”と言う事です。いい物を買って長持ちさせると、そこに快感が生じますよ。

 

 

 

 

 

 

 

守るべきモノ

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結び、久しくとどまりたるためなし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごと

 

 

世の中はかくの如し。と、いみじくも方丈記は言う。

世界中が新型ウィルスによって震撼させられ、多くのものが消えゆき、又今もなお消えゆこうとしている。

最初に消え去るものは”はかない”モノ。例えば文化や芸術。そして音楽。一見すると生活に必要であっても火急なモノではない物。

 

まず、腹が膨れるものを食べ、まず、雨露が凌げる場所に住み、まず、暑さ寒さを凌ぐために着ることができれば人は生きて行ける。

どんなモノを食べるか?どんな家に住むか?どんなモノを着るか?は二の次である。そして音楽や文化・芸術などは三も四も後の話となる。

誰かが守らなければ、世の中にある素敵なものは全て泡や霧の如く散って消えて無くなる。そんな世の中にしたくなければ今ある素敵なモノを

守らなければならない。そして滅びてしまえば復興させなければいけない。

どんな世の中であっても、どんなモノを食べるか?どんな家に住むか?どんなモノを着るかを真剣に考えないといけない。

 

誰かが”意味があるモノ”を守らなければ、世の中は脳味噌だけの世界になってゆく。コンピューターは人間の脳味噌を刺激するアルゴリズムを手に入れた。

危険なことに商業的に正しく刺激を受けた脳味噌はある一定の方向へと導かれている。今後史上最高。と言われる数字をよく目にする時代がやってくる。

音楽の再生回数も映画の興行収入も選挙の投票数も。史上最高が生まれる時代。これはコンピューターに導かれた結果であって、数の史上最高と言う結果は必ずしも

その物自体の価値が最高なわけではないことを示している。すでにアルゴリズム化されたAIが稼働している今日。

マジョリティが正義であった時代は過去のものとなった。守るべきモノは数の理論による多数のものではなく、強いて言えばマイノリティなモノ。なのかもしれない。

人類の叡智によって生じた素晴らしい物は誰かが気付いて、守ってあげないと、はかなく散ってしまう。

 

方丈記が示唆することは素晴らしい哲学ではあるが、生きてる者はそこまで達観しできない。

自ら大切に思う事や物は手厚く守らないと気付いたらなくなっていると言う時代がすぐそこまで来ている。

 

 

 

 

ヒップ

 

ヒップはお尻の話ではなく、イカシテルという話。

イカシテルにはオーサム(awesome)、クール(cool)の他にヒップ(hip)という表現がある。ヒップな連中のことをヒップスターとも言った。1950年代後半以降、それはアメリカ西海岸から始まった。ヒッピーの連中がカリフォルニアでコミューンを作り、大量生産・大量消費に向かう世の中に警告を鳴らし始め、カウンターカルチャーが興った頃ソ連がスプートニック号を打ち上げ、宇宙から地球の姿を見る時代がやってくると、1960年代後半にアメリカのスチュアート ブランドが「ホール・アース・カタログ」を発行した。その「ホール・アース・カタログ」の表紙には宇宙に浮かぶ地球の姿を採用した。地球規模で物事を考えたり感じたりする時代の幕上げはここから始まったグローバルな目はその後インターネットという手段を得てものすごいスピードで世に広まった。ドラッグ(LSD)カルチャーを抜きにした新たなカウンターカルチャーは1984年にアップル コンピューターがマッキントッシュを発売しオーソン ウェールの小説に登場するビッグ ブラザーをもじって、コンピューターが独裁者のように人々を支配する未来を変えるのはマッキントッシュだ!というCMを作った。当時のコンピューターの未来は中央集権の独裁者のイメージであった。コンピューターはスティーブ ジョブズのおかげで個人の表現と解放を象徴するTOOLとして一般家庭にも普及した。個人の表現や価値感、そして自由への解放へとつながっていったコンピューターはこの新型ウィルスの時代に好きな場所で仕事ができる(リモートワーク)ようになり、それによって職場から人々が解放された。

アップル コンピューターのマッキントッシュ、すなわちAPPLE のMACを持つことは、自由へのTOOLを獲得した事と同じ意味になった。そして覚醒のためにマリファナをコーヒーに変え、人間は自然の一部であることを忘れないために髭を生やし、地球を宇宙視点で眺め、食物連鎖の頂点に立っていると奢る人間の頭に、実はその存在がいかに小さいか。という原理原則を思い起こさせてくれるために宇宙衛星からの視点で物事を俯瞰するようになった。そのおかげでシリコンバレーでコンピューターの仕事に携わっている人々は”HIPな人”になれた。

 

「access to tools」この言葉はDIY精神を盛り込んだ「ホール アース カタログ」の中でスチュアート ブランドが1960年代後半に唱えた言葉。

「自分だけの個人的な力の世界が生まれようとしている。個人が自らを教育する力、自らのインスピレーションを発見する力、自らの環境を形成する力、そして興味を示してくれる人、誰とでも自らの冒険体験を共有する力の世界。このプロセスに資するツールを探し、世界中に普及させる。」と彼は言った。

1984年にスティーブ ジョブズがそれをコンピューターで実現した。そして2020年現在、アップルはホール アース カタログで唱えられたtoolそのものとなった。

ヒッピーとDIY精神。そしてカウンターカルチャー。権力に屈しない精神「愚かであれ、貧しくあれ」。ここにアップルとホール アース カタログ。スティーブ ジョブズとスチュアート ブランドの精神が宿る。HIPな人がアップルを持つ理由もここにある。

 

 

 

 

ない。

 

日本のお坊さんは頭に髪の毛がない。

この姿を剃髪(ていはつ)と言う。なぜないか?と言うと信仰する宗教の教えによってそのようにしている。

輪廻転生の世界にあって「己に関わりを有するものごとは、己にとって苦である」と言う意味があるらしい。

仏教においての最大事は悟る事。悟りを開くためには俗世の束縛や迷い、煩悩への苦しみから逸脱しなければならない。

その第一歩として剃髪し、俗世間から抜け出すわけだ。

 

仏教での「苦」は、「こだわり」がもとになっていると言う。

髪の毛があると、そこに多くの意識が入る。髪型や色、毛量の加減。それらに付属する「こだわり」は雑念であり思考や時間を奪われてしまう元凶である。だから出家したら頭を丸める。と言う事のようだ。

 

面白い事にこれは衣類にも言える。

例えば無地のTシャツには柄がない。ネイビーや白、黒の無地Tシャツにはそこに一見こだわりや主張が存在しない。

だから、俗世間の雑念から離れるには無地のTシャツは格好の素材になる。ところがファッションというのは面白いもので無地を着る事が逆にこだわりになったりする。そうするとそれは雑念という事に変わる。この雑念から離れたのがアインシュタインやスティーブ ジョブスでいつも”こだわった”同じ服を着るようにした。スティーブ ジョブスのトレードマーク。黒のハイネックは昔来日した際にsonyの工場スタッフか何かで働く姿に感銘を受け、それが脳裏に焼き付いてそのような衣装にしたらしい。それでもIssey Miyakeの作った黒のハイネックを何枚も所有するあたりにこだわりが感じられる。

 

今も昔もTシャツや髪型は自己主張の為のものである事に変わりはない。いろいろ試した結果、最高位の”ない”にたどり着くには相当な回り道をする必要がある。デザインの最高位はless is moreと言われる。しかし人間とは贅沢なもので”ない”という心境に達すれば又”ある”が眩しいほどに良く見えたりもする。そして面白い事に雑念に囚われない生き方をしている人は心に大望を持ち、それに邁進している人が多い。その事(大望や目標)に向かう為に、限りある時間を惜しみなく使う為にも何かに囚われている暇はない。だから”ない”という選択肢を諒とする。

 

さて、親鸞というお坊さんがいた。浄土真宗は親鸞によって興たけど、この親鸞は有髪者(髪の毛があった)。その上妻帯者でもあった。

親鸞の面白さは世間から離れずに塵に塗れて過ごす。という事だった。超越していない為に結構市井の者たちは親近感を持った。らしい。

黒子というのも日本に居る。人形の後ろで黒い衣装をまとい、影に同化してその存在を消している。これも一種の”ない”状態である。

毛根はあるのに頭に髪の毛がない。という事と無地と言う地があるTシャツにプリントがない。という事と黒子となってその存在がない。と言うことは非常に日本的で面白い。どれもが存在し、現象としてそこにあるのに”ない”事になっている。

 

だから”ない”というのはもっとも”ある”と言う事になる。 

 

それも、ものすごい存在感である。

 

 

 

 

 

 

 

 


2020年07.12.

PETER DOIG

 

ピーター ドイグ展

国立近代美術館で開催中の展示会を観てきました。

 

昨今、油絵の世界は、光や造形、そしてコンピューターの進化を背景にしたテクニカルなモダンアートのシーンにおいて、はるかに後塵を仰ぐ存在であり続けましたが、ピーター ドイグの存在によってレトロスペクティブなものとの邂逅がかない、さらにより身近なものへと変化しました。

ニューヨークのバーニーズニューヨークで見たアドバタイジング(2015年)やコペンハーゲンのILUM(デパート)で見たアドバタイジング(2018年)の表現方法は、まさにこのピーター ドイクのタッチのようで、非常に心惹かれるものがありました。

 

彼は英国出身なだけにどちらかというと欧州での評価が高いようですが、ここ日本でもきっと今後評価が高まることは間違えないように思います。

日本では初の展示会。是非おすすめのアートです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、「おうち時間」をいかに充実させるか、を考える時に北欧関連の書籍も非常に役に立つと思います。

 

ここで三冊の本をお勧めします。おうち時間ができたら是非読んでみてください。

 

 

 

ヒュッゲな時間とインテリア

 

ここ2、3年、「北欧特集」といったタイトルで北欧にまつわる書籍を集めて紹介する書店が増えてきた。

ロンドンやパリ、ニューヨークといったメジャーな都市に纏わる書籍はどこに行っても見かけることができたけど、北欧という小国の事情が詳しく日本に伝わる今の状況は嬉しい限りだ。その上、距離的に見ても実は日本から最も近いヨーロッパはヘルシンキ(フィンランド)なのだ。わずか9時間の飛行時間で到着する事ができる。森に囲まれた静かで美しい街ヘルシンキに避暑をかねて訪れるのは成熟した大人にとってこの上ない経験になる事は僕が保証します。

 

さて「ヒュッゲな時間の過ごし方」といったこれまで聞きなれない言葉も、自然と日本に浸透し、デンマークのヒュッゲということについて深く考えられた方も多いのではないかと思う。

 

北欧各国は地理的状況から一年を通じて寒い期間が長い。故に家に篭って過ごす時間も必然的に日本より長くなる。

そんな「おうち時間」の上手な過ごし方において先輩である北欧から学ぶことは多い。しかしながら北欧と一括りにしてもヘルシンキ(フィンランド)とストックホルム(スェーデン)、コペンハーゲン(デンマーク)、オスロ(ノルウェー)で流れる空気感は一様ではない。それぞれの国を解剖すると又新たな発見があって面白い。

 

しかしながら、これらの国々の共通項として、インテリアの視点から解剖していくと、総じて北欧のインテリアは中央ヨーロッパと比べてシンプルにできている事がわかる。デコラティブな装飾(凹凸)を排除し、三次元ではなく二次元的な装飾を好んで持ちいる。また素材についても地産地消の観点から木製品の場合バーチやビーチ材といった白木を使ったものが多い。金属の場合は、冷たい感じがするシルバー色のニッケルやクロームを排除し、温かみのある真鍮や銅。といった黄鉄・赤鉄を好んで用いる。そしてもう一つの要素が少し緊張感を生む直線と穏やかに弛緩する曲線のバランスの良いミックス感。これらの要素は共通してインテリアや家具に見られる。

 

さて、ここではデンマークについて深堀してみたい。

 

デンマークには代表的なミュージアムとして「デンマーク デザイン ミュージアム」が市中にある。

(※もう一つの有名な美術館ルイジアナは電車で一時間の場所に位置する)

ここデンマーク デザイン ミュージアムは元々病院施設だったところをリノベーションして美術館として再生した。

インテリアやデザインが好きだったらワクワクするものが沢山展示されていて、一周終えた後に訪れるミュージアムショップも、ゆっくりするカフェスペースも、中庭もとても行き届いたデザインとランドスケープでできている。

 

僕が初めてここを訪れた時、特別展で「日本から学べ」という展示会が行われていた。興味深い日本の様々なものが曲がる事なく(湾曲されたり、誇張されたりする事なく)展示されていたのがとても良かった。デンマークはそのようだけども、デンマーク以外の北欧の国々も日本に対して並々ならぬ関心を抱いていて、それは特にインテリアの分野において顕著に現れており、彼らが作るモノの中に日本的要素を探す事は、我々日本人にすれば非常に容易い。日本というローカルエリアに昔からある”知恵の塊”のようなプロダクトを応用する事は北欧では普通に行われていて、日本以上に日本の事を研究しているという跡が見える。ヘルシンキにあるアルバ アアルトさんの自宅を訪れた際に見せていただいた調度品にはとても日本のものが使われていた。彼が作った家具メーカー アルテックの製品の中に、日本との類似性やシンクロ、シンパシーを感じる方は非常に多い事でしょう。

 

 

ヒュッゲな時間を過ごすにあたり、インテリアにおいて、僕のお勧めする事は、「道具」ではなく「家具」を買おう。という事に尽きます。

必要に応じて仕事をしてくれる道具はいくら種類や数を揃えても、その終着点は廃棄場になります。道具というものはいづれ劣化してただのゴミになります。さらに使い易さを増した新作の登場や、ハイテクを装備したモノが出現すれば劣化していない道具でも、真っ直ぐ廃棄される運命になります。それに比べて、劣化しても経年美化によって味が増す家具というものはいづれヴィンテージと呼ばれるものに変わります。購入した家具と同じ製品が10年後も100年後も店頭で売られている。これは時間が経っても製品の価値は下がらずに支持され続けている事の証です。

この考え方は北欧を訪れれば肌感でわかりますし、日本にいても美を識別する能力がある方は言わずもがなの事かと思います。

 

 

 

 

 

 

 

椅子の話

 

 

2018年3月。僕は椅子の事でウィーンへ飛んだ。

オランダ航空に乗り、成田からアムステルダムを経由してウィーンへ。空港からタクシーに乗ってホテルに着いたのは夜中の0:00だった。

 

ウィーン応用美術館 THONET collection room

 

 

 

 

翌日、早起きしてホテルでコンチネンタル ブレイクファストを食べた後 僕は電車でオーストリア中央墓地へ向かった。

想像以上に大きな墓地。目的はトーネット家のお墓。

途方もなく大きな墓地の中央口で「地図ください」と言っても墓地の門番は英語ができず、身振り手振りで頼んではみたがもらったのは簡単なブローシャー程度で結局地図は手に入らなかった。

 

墓地へ入り、大通りを真っ直ぐに歩いていると後ろから来た車に乗った親切な老夫婦から声をかけられた。

「ベートーベン?」 老夫婦は僕にそう声をかけた。

ベートーベン、モーツアルト。ここには名だたる音楽家が眠っていて、多くの観光客はそこを目指してこの墓地を訪れるようだ。

「トーネットを探してるんだ」

僕は彼らにそう告げると、「あー、トーネットはその先を行って右側にあるよ」と教えてくれた。

 

なんと親切なオーストリアの人達。最初からこの旅はうまくいく気がした。

 

墓参りを終えた後、カフェや街中の面白い場所を廻り、その後オーストリア応用美術館へ足を向けた。

ここにはトーネットの椅子ばかりを展示しているコーナーがあり、オーストリアにおいてやはりトーネットは歴史の1ページとなっている事を確信した。一通り見終えた後、僕はこの美術館のカフェで一服した。そのカフェではリノリウム素材を多用したテーブルが使われていた。

僕も2017年からTSUKU-HAEでリノリウム素材を使ったテーブルを展開している。新しく導入したものがデザインや素材として正しい方向に向かっている事を改めて確認した。

 

翌日、朝8:00の電車に乗って僕はウィーンからビストリッツェへと向かった。電車の旅は約一時間半。到着した駅ではMr.ラデェックが僕らの到着を待っていてくれた。

 

先ず最初にミーティング ルームへ案内され可もなく不可もないコーヒーを頂いた後、軽い談笑からミーティングは始まった。

「昨日、トーネットさんのお墓に行ってきたよ。これからの僕らのビジネスがうまくいくように祈ってきた。」と僕が告げるとラデェックは微笑んだ。きっとそんなビジネスパートナーは世界中に過去いなかったのではないか。

僕はとても日本っぽい入り方で彼らのところへ飛び込んだ。

 

その日はミーティングの後に工場見学、そして夜はディナーを共にした。チェコでポピュラーとされる夕飯にワインを頂き、お互いの家族構成や趣味などについて話したりした。

 

会社の近くにあったそのレストランには宿が併設されていた。僕はそこで一泊。そして翌日再びミーティングを行いビストリッツェを後にした。

帰る頃には「ラデェック」、「ヤス」と呼び合う関係となり出張はまずまずの成果を上げた。

 

プラハを見て帰ろう。

そう思っていたので三時間半かけてビストリッツェからプラハへと向かい、夜の帳が下りる頃プラハの駅へ到着した。そこからはタクシーに乗って街中のair BBホテルへ。途中見かけたカレル城もカレル橋もとてもロマンチックな景色でミーティングもうまくいったその日は上機嫌で旅気分を満喫した。到着した家は、古くて重みがあり、部屋も4っ。十分すぎるほどのゆとりがあった。

 

夕飯を食べ、部屋に戻った後チェコのうまいビールを飲みながらここ最近の出来事を僕は振り返った。

 

僕は2015年にアメリカ、ニューヨーク、ポートランド、LAへ出掛けた。

その時寄ったブルックリンにある”ワイスホテル”や、ロサンゼルスのダウンタウンにある”エースホテル”でトーネットチェアを見かけた。

「やっぱり良い椅子だなぁ。」とそこでその椅子にかけてみて改めて思った。

その時には後日自分がわざわざチェコまで出掛け、その椅子を輸入するようになろうとは全く夢想すらしていなかった。

その後、2017年に行ったデンマーク、コペンハーゲンのデパート”イルム”でもこの椅子を見かけた。さらにデンマークデザインミュージアムに飾られるトーネットチェアをみて、さらに向かったストックホルムのカフェやベルリンのレストラン。と欧州のいたるところこの椅子を見て、頭から離れなくなった。

 

帰国して、できる限りの文献をあたり、椅子の歴史を調べ上げ、知れば知るほどこの椅子が市民のための量産椅子の始まりであり、価値があることを知った。これは是非とも欲しい。先ず最初にそう思いそれからチェコのカレルタイゲやハンガリーのもホリナジなどを調べ上げて、チェコへのアプローチが始まった。

 

市場には人の数以上の椅子が存在する。そんな椅子の中でもこの椅子はすべての椅子のお母さん。とも言える。その上手軽に買える文化遺産であり、時代の風雨に耐える数少ない名作であり、僕達よりも寿命の長いこの椅子の耐久性は、値がある最上級のものであることを確信した。

自分が最高だと思うものを人に勧めたい。僕はいつもそう思っている。だから僕はこの椅子を日本で紹介する事にした。

 

「世界で最も素晴らしい椅子ですよ。」と僕はこの椅子を紹介する時に必ず言う。

 

余談だが、僕はオフィスでこの椅子を使っている。

コルビュジェがこの椅子を愛し、オフィスでダイニングで、エスプリ ヌーボー館で使ったように。

 

 

 

 

 

 

文理の揺り返し

 

物事を情緒的、精神的に捉えるのが”文”。

科学や物理、数学的に捉えるのが”理”。

物事の味方には常にこの二つの視点が交錯する。

 

 

”文”は”その時代”を背景にして起こる。

その時代で確立した価値観を元に「それはいいねぇ」という大衆の共感を得て、値(あたい)が上がる。(後日、下がったりもする)

 

”ビート ジェネレーション” 

”サイレント ジェネレーション” 

”ジャズ エイジ” 

”ミレニアム ジェネレーション” 

”ジェネレーションX” 

”ヒップスター”のように、

 

言い方や表し方は様々あっっても時代を背景にして起こった一定の価値観がどの世代(ジェネレーション)にも興隆し、世代が変わることで価値観も揺れ動く。

 

”文”のコア(中心)にある情緒とは気分とも言えるので、時代の背景が変わり、気分が変われば、過去一定の価値があったそれらが無価値になったり再度有効な価値として再興したりもする。だからその思想や表現は「古いねぇ」となったり「新しいねぇ」となったり「古くて良いものは今も良いねぇ」となったり「もう、オワコン(終わりを迎えたコンテンツ)だよね」となったり時代の背景によって株が上がったり下がったりする。 

 

かたや”理”においては、数学的な裏付けを常に伴うので、そこに人類共通の揺るぎない自明の理として存在する。

黄金比や白銀比、フェボナッチ数列といった自然界にある現象を科学的に解剖した結果得られた数値は宇宙が存在する限り不滅の法則として認識される。未来永劫”終わらないコンテンツ”として残りそうなのが”理”から得た認識。とも言える。

 

”文”的要素として影響力

 

過去、”文”的要素として影響力のあった最大の国はアメリカとフランス。だと僕は思う。

アメリカやフランスのコンテンツは面白かった。

 

ビート ジェネレーション時代はジャズ エイジとも交錯するが、ジャズにポエムそして文学に若者は価値をみた。

首謀者にケルアックやギンズバーグ、バロウズ、ファリンゲティらの名が上がり、それらの震源地であるサンフランシスコのシティ ライツ ブックストアが脳裏をよぎる。同じくフランスに目を向ければパリ五区にあるシェクスピア・アンド・カンパニーは欧州のボヘミアン達の震源地であり、ジェームズ・ジョイスの「ユリシリーズ」と言った本を出版し、発禁本となったりもした経緯はシティライツとも似ている。

 

”文”には値がつくのでその内容が過激すぎたり先を行き過ぎていた場合、未来志向(若者)には称賛されるが、旧志向(老人)からは毛嫌いされるケースが多い。「長髪はダメだ」「ホモなど許されない」「ロックなどありえない」とミッドセンチュリーの時代は価値観の相克によって世代間での対立が高まったりもした。しかし2019年現在「ロン毛」「LGBT」「音楽」はすでになんでもオッケーの時代になっているので現在から当時を振り返ってみると「なんで彼らはもめていたの?」と感じるだけで、すなわち時代の背景が変わっただけで人間外見は大して変化していない事に気づく。ようは頭の中身の許容の仕方が変わっただけなのだ。

 

”理”的要素として影響力

 

過去、”理”的要素として影響力があったのは、紛れもなくドイツ。だと僕は思う。

 

音速を超える航空技術や大気圏を突破する宇宙工学、デザインを分解・解剖し再構築したバウハウスと言った学びの舎は全てドイツに起因している。カンディンスキーやポール・クレイ、モホリ・ナジ、ヨハネス・イッテンと言ったバウハウスの教授たちは広く欧州の新しい”理”を追求する建築家やデザイナー、コルビュジェ(フランス)やカッシャーク・ラヨシュ(ハンガリー)、ヨゼフ・ホフマン(オーストリア)らとも交わり”真理”の追求に躍起になっていた。

 

「地球が自転している」という真理ですら過去、邪悪な思考とされた時代もあり。”理”の求道者たちも”文”の求道者と同様に過去の価値を絶対とする旧勢力の前では理解を得るのに何十年、何百年と要している。

 

しかし”理”の方は一度理解を得れば、未来永劫変わらない真理としてのポジションから落ちることはない。

「地球は自転している」「O2(酸素)がなければ火は起きない」これら科学は数学的に立証された後は揺るぎない立場を得て、真理から摂理へと昇華し、それが自然のこと。と捉えられるようになった。

 

 

さて、世の中で今求められている事は、ほぼ全てビジネスに関わっている。

つまり市場で支持を得て、大衆に普及し、そこで利益を得る事へと繋がっている。

”文”つまり情緒的に訴えるのか、”理”つまり数学的に訴えるのか。という二つの側面から市場に訴えかける。

 

大企業は”理”から訴える事で支持を取り付けるケースが多い。彼らは真理を使ってモノポリに市場を制覇したいからだ。

路地裏にある個人事業主はこの”理”については現在手が出せない状態に陥っているので”文”に訴える事に躍起になっている。

ゆえに古くてよかった価値観。オワコンになっていない価値観を洗い、乾かし再びお化粧直しして市場に運んで利潤を得ている。

 

残念なのは”文”すなわち情緒的な新しい価値観を求める求道者が現れず、”理”すなわち”新しい理”を求める求道者を生む学舎が起こらず、

”発禁本”となるほどの過激な内容を提唱する個人もいなければパトロンもなく、バウハウスのように廃校に追いやられる団体もいない時代になってしまい、緩やかに時代の外縁に沿って思慮深く移ろう文理が階段を踏み外さぬように歩を進める時代が今日現在である。という事になってしまった。

 

文理の揺り返しがない時代。というのもまた新しい時代。と思えばそれはそれだが、なんともつまらない時代だな。と感じるパイオニア精神を持つ人々は以外と多いように思う。

 

新しい時代の生き方や価値、真理を考える上で、ここに一縷の望みがある。

 

それはパリだ。

 

パリジャンやパリジェンヌたちは、パリの中でお気に入りのエリアを見つけたら、あまりそのエリアから出ない。という人が多い。

用事があったり、どうしてもいかないといけない場合には自分の縄張りから出る。という意識でいる。

そこ(その人の生活圏)には自分の宇宙があって、彼らはそこで日常生活を送る。

 

左岸(セーヌ川の南エリア)の住人は右岸に足を伸ばさない。

マレ地区(右岸)の連中はそこから出ない。

モンマルトルの連中は川を渡らない。

 

そんな生き方。 

 

これは実は非常に面白い生き方だと痛感する。

都市に中心をおかず都心と言われるエリアを1区から16区までカタツムリ状に配置している事は実は重要な事だと思う。

日本の東京のように、東京駅を中心に登り、下りと放射線状に街を広げれば、どうしても出勤で登り、帰宅で下りとなり人々は常に中心に向けて離合集散しその画一的な行動ゆえにラッシュが生じる。

 

サービスも価値も思考も何もかも画一を目指す日本ではあるが、すでに価値観の相克はあちこちで起こっている。

現在、日本にはアメリカ的価値にウエイトを置く日本人。欧州的価値を持つ日本人、アジア的価値を持つ日本人。生粋の日本人といったように同じ顔をしながらも全く毛色の違う日本人が鮮明に出来上がってきている。それぞれが快適に過ごせるエリアを設ける事でお互い干渉しない価値の多様性がある状態が起これば良い。と僕は思う。

 

個々人が個別にあり、それらの集合体がユナイテッド ジャパンで良いのではないか?と思う。

あえて中華思想(フランスや中国に見られる我唯一論)とは違う、価値の合う集団を認め合う関係を構築すれば面白い未来が待っているように思う。

 

そのためにダイバーシティ(多様性)論は元より、文理の大きな揺り返しがない時代にあった生活エリア作りを目指すのが21世紀的な”理”であり”文”のように思うが、いかがであろうか。

 

 

 

 

 

Do you smoke tobacco ?

 

 

tobacco (煙草)

 

世間が、タバコとタバコを吸う人を敬遠するようになってから世の中が悪くなった。と思うのは僕だけだろうか。「悪くなった」という表現に語弊があるならば「ギスギスしだした」と言い換えれば良いか。東京千代田区を歩くと、歩道に大きく「禁煙」と書かれてある。さらに”条例により”と誰が提案し、採択し作った条例か知らぬが念押ししてある。銀座界隈を歩く人は非常に多い。であるならば灰皿をあちこちの路地裏に設置すれば、それで済む話では無いのだろうか?

 

その昔、カリフォルニアの条例でオートバイに乗る場合はヘルメットの着用が義務化された。その時にオートバイを降りる人や自殺する人まで現れた。と何かの雑誌に書かれてあった。トランプが大統領になったらアメリカを出る。という報道も見かけたが、アメリカ人は大風呂敷を広げるのが好きなようで、99.9%の人が自殺もしなきゃ、アメリカから出て行くこともしない。多いに抵抗を見せても彼らは今まで通り順法精神を持って暮らしている。

しかし一方、日本では嫌煙が始まり目に見えぬ世間という名の正義が騒ぎ始めると、多くの愛煙家は無抵抗のままあっさりと白旗をあげた。そうして禁煙することを「成功した」と言って彼らもまた世間となり、正義となったふりをして、自分が元いた場所である愛煙家を攻撃するようになる。

 

そんなタバコと世間について。

 

日本では21世紀になる頃しきりと分煙や禁煙、そして嫌煙ということを言う時代がやってきた。

これまでタバコの煙を嫌っていた人がこれほどまでにいたのか?と思うほど加速的に嫌煙は日本を席巻し、今や犯罪者かアウトローのような目で愛煙家は世間から見られるようになった。と同時に人の暮らしについてとやかく言う暮らしにくい時代が訪れた。世間の目は一層厳しさを増す世紀がやってきた。

なびくか、流される。というのが終戦後の日本に形成された世間なので多くの人がタバコから離れていった。企業は利益が必要なので電子タバコという愛煙家からすればとてもタバコと呼べるものではないものも市場に出回った。タバコを吸う時というのは状況によって様々だが、電子タバコを吸うその様を見ると僕の主観だが、けっしてスマートでもかっこいいものでもない。大人がストローでチューチュー吸っているようなそんな幼稚さが、行為に見える。

 

タバコはコーヒーや酒といった嗜好品とこれ以上ないマッチングで、酒の味を二倍に、コーヒーの味を三倍にしてくれる。

ところが料理についてはそうはいかない。タバコをやめた方が舌には良いようで、半年も禁煙すれば料理を味わう舌はかつてないほど敏感になり料理が美味しく感じる。

グルメである人は相性の悪いタバコを吸わない方が幸せな人生をおくれる。この歳になってもマクドナルドのハンバーガーで大丈夫な僕は、舌が敏感ではないようなのでタバコによる弊害はない。

 

タバコは人によって合う合わないがある。酒もコーヒーも同様で、酒が飲めない人もいれば紅茶やお茶の方が好きな人もいる。だから人生においてタバコが必要ない人は大勢いるわけだが、「やれ健康だ。やれ環境だ。」という美名のもとにタバコを排斥するのは如何なものかと思う。

健康は個人の問題で、「僕の人生。そこまであなたに管理してもらう必要はない」と愛煙家は皆口を揃えて言うことだろう。そうすると嫌煙を声高にいう世間は、すべての人に関わってくる「環境」という黄門様の印籠を出してくる。これを出されれば、「へへー」となるしかなくなってしまう。

車の排気ガス。大量の廃棄ゴミ。放射能、海洋投棄、産業廃棄物。ビル熱。それらすべてにおいて「環境。環境。」とシュプレヒコールは捲き起こる。

 

僕から見る環境とは、建築物と人々の服装のことだ。綺麗な街並みとその場その場に相応しい服装こそが素晴らしい環境を形成するのであって、これを「環境問題」と定義づけしない環境保護団体は実に多い。良い街並みができれば人心は皆高い感度を持って環境全般を意識し始める。意識が変われば自然と公害は減少に向かうものである。

 

地球上の喫煙者がゼロに成ったとて地球上の環境はさほど変わらない。そして健康問題においても「あれはダメ。これもダメ」と自由を奪われるストレスの方が健康を害している。

 

タバコは人によってマッチする。しないがある。マッチしない人がマッチする人を嫌えば、そのうち酒においても禁酒法ができるやもしれない。

なくならない飲酒運転事故、飲酒過多による性犯罪、酒による過ち。これらは酒がなくなればすべて解決する。ただし、酒に環境問題は持ち出せない。世間を黙らせる印籠が無いために酒は守られているとも言える。

 

酒もタバコも、それ自体を秤にかけて罰するのはナンセンスの極みだ。ようはそれを使う人々が暮らす街や文化、習慣、意識を変えなければ上辺だけ罰したり規制してもむしろ逆効果でしか無い。間も無く新しい年号に日本は変わる。「平成」という時代は出る杭が打たれ、平らに成った時代。と振り返れば思える。「昭和」と比較してあの頃のような包容力、許容力は平成にはなかった。何事においても「 許せません 」という言葉をあちこちで耳にしたのが平成だった。

新しい時代に人々が求めるのは許容力では無いだろうか?。「まぁまぁ、そういうこともあるじゃ無い」と言った優しい世間では無いだろうか。

 

「だって人間なんだもの」 

 みつを

 

 

 

 

 

 

 

 

日本語で”風流(ふうりゅう)”と言う表現がある。

風流とは、中世以降の日本で「高揚した美意識の一つ」として大いに発展した。

そのうち華美や雅が行き過ぎて時の政治権力が”風流”を抑制しようとするまでに至ったが、庶民においてその効果はなく、織田信長や豊富秀吉の時代にはさらにカブク方向へと進み、風流は発展し定着した。のちに芸能、建築、美術にも風流は用いられた為、風流をまとった意匠によって室町以降の日本のインフラは成った。

これは日本独自の心の持ち方、感受性と言っても言い過ぎではない。

 

”風流”を表すに”花鳥風月”と言われるものがある。

 

これは世阿弥が残した能の理論書とでもいうか、「風姿花伝」の中に書かれてある。風姿花伝は非常に面白い本なので、おすすめしたいが、ここに花鳥風月が出てくる。「上職の品々、花鳥風月の事態、いかにもいかにも細かに似すべし」と言う下である。

 

若い頃にはビーチ(海)を見て風流を思い、春の桜や秋の紅葉を見て風流に浸るわけだが、齢を重ね、日常の中に風流を見出すようになると、まずは道端に咲く花、そして木々で囀る鳥。そして季節を運ぶ風、空に浮かぶ月に思いを馳せるようになると言う。序列でいけば、月を愛でる行為は、風流を感じる最上の物とも言える。

 

夜空を見上げる行為は、現代から見ると”侘び寂び”と思えるが、”侘び寂び”と”風流”は対峙する関係ににあるのに、当時は風流と捉えられていたところが面白いところでもある。

 

僕も一端の風流者(ふりゅうざ)であると自負しているので、風流の上席にある、この月と言う言葉を使って生業の屋号としたい。と創業の時に考え

TSUKU-HAE ( 月映 )と言う名で商標を登録した。風流の極み、月にも映えるモノを提供したい。そのような心持ちでデザインやプロダクトを日々考えている。

日本に古来からある思想や感受性は深淵で、若い突っ走るだけの新興国には持ち得ない感性がそこここに埋もれているように僕は思う。

古都、京都に多くのフランス人が訪れ、コペンハーゲンにあるデンマーク デザイン ミュージアムで「LEARNING FROM JAPAN(日本から学べ)展」が開かれる理由は成熟したデザインや建築物に囲まれて暮らす人々の感性を潤すモノが日本のそこここにあるからに他ならない。

 

古くから当たり前のように生活に埋もれている日本の英知を新しい視点で見直すことで、現代社会が必要とする風流を帯びたモノを創造し、楽しい生活に寄与したいと心底考える。それは何よりも僕自身が今の世の中、今の日本にそれが不足していると思うからでもあります。

伝統という美名のもと、カビ臭いモノの埃を払ってくるだけでなく、そこに現代的風流と言う解釈を加えて、成熟した社会に暮らす人が喜ぶモノ。

そのようなモノが生まれる土壌がここ日本には沢山あるように思う。

 

まずはよく晴れた夜、澄み渡った夜空を見上げ、月に思いを馳せてみる事から始めますかね。

海で、山で、古都で都会で、日本で海外で、感受性を高めてくれる月を沢山見て感じる事ができる生活、そんな風流な暮らしを日々送りたいものです。

 

そう、プライスレス(無料)ですしね。

 

 

月映

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

食べるものは特に"旬"のモノが良い。と言われる。しかしその"旬"について考えると日本の"旬"は実に細分化されていて、3つに分かれる。

 

まずは ”はしり” そして ”さかり” 最後に ”なごり”

 

秋のさんまなどは、まさに”はしり”で頂きたいモノの最たるものではないでしょうか?

”はしり”には新茶と言うモノもある。コーヒー好きの僕にとっては、秋の匂いがすると出回り始めるケニヤのコーヒー豆。これも旬の中の”はしり”と言える。

 

さて、では着るモノ、そしてデザイン、さらに音楽はどうだろうか?

やはり、これらにも”旬”はあり、やはり旬のモノを手にする事は、移ろいゆく定めの中に生きる人として無常の喜びがおこる。

 

ファッションや音楽、インテリアの場合の旬について考えると食べ物とは若干の違いがある。

例えば、立秋にさんまを食べても、晩秋にさんまを食べても、秋の内に食べていれば知人は「いいねぇ!旬だねぇ」と言う。つまり”はしり”でも”なごり”でも「いいねぇ」と言われる。ところがファッションの場合、特によく言う「アンテナの高い人」すなわち感度の良い人は、この”はしり”のさらに前に、ファッションの動向をキャッチするようで、他人が最旬を感じる頃。つまり”さかり”の頃には、次の旬になるであろうモノへと移ろう。さらに”なごり”の時期になれば、すでに”ダサい”となる。

 

近頃はこの”はしり” ”さかり” ”なごり”のサイクルが早すぎて、人々がついていけず、ファッションは遥か彼方前方を独走している感があり、周回遅れで置き去りにされた大衆は旬を意識することも薄れ、ユニクロやファストファッションなど、旬のない量産品へと向かう。

おかげで先を行き過ぎたり、過度に何かに傾いたファッションはむしろ”それってかっこいいの?”と言う時代になった。

 

ではインテリアの場合はどうだろうか。

 

”はしり”を早くから取り入れるとその良さが大衆には周知されず、”さかり”の頃までは腑に落ちない。と言う空白の時間がインテリアの場合に生じる。

ところが”はしり”だった現象が少しずつ”きざし”としてポツポツと見え始め、大衆の理解を得て”さかり”を迎えると、恐ろしいスピードであちこちに同一化、画一化現象が生じ、あっという間に日本中に同じようなモノが出現する。そしてよく見慣れたものとして津々浦々まで広がると”なごり”と言うモノに感じる。

 

”はしり”で出現したクオリティーと同等で作られる”なごり”のモノは「よく見ると本物はやっぱりいいなぁ」と思えるものが多いが、だいたいにおいて”なごり”のモノは安価に海外で制作され、コピーのコピーのそのまたコピーの様な劣化したモノになりがちで、本来あった”良さの基”である要素をすっかり無くしたもぬけの殻の様なものが多い。例えば”お値段以上”のキャッチコピーで有名なニトリで売られているアルバ アアルトがデザインし今や世界中で売られているスツール60の劣化コピー品の様に。

 

”はしり”で出現したクオリティーと同等で作られる”なごり”の要素を少しと、次なる現象であり大衆にはまだ気づかれていない”はしり”の要素をちりばめて、それらをうまくミックスして空間を構築すると、ちょうど良い塩梅となり、長久空間が誕生する。新たに出来上がった空間は時代の風雨にも耐え、最低でも10年できれば20年、欲を言うと30年は持って欲しいと願う。

 

日本ではある現象が”さかり”を迎えると、恐ろしい事に、道徳心のかけらも持ち合わせていない守銭奴がやってきて、ものすごいスピードで”さかり”の要素を取り入れ、食い散らかし、雑草も生えない状態にして、そそくさと次の”さかり”へと向かう。  そういった”イナゴの大群”の出現によって、極めて劣化した製品が世に産み落とされ、購買者や利用者は不利益を被ることとなる。

 

”はしり”を提唱したモノや者に敬意を払わない社会は、いずれ早晩”なごり”の後に残る”劣化した剽窃(ひょうせつ)”に囲まれ、移ろい行く定めの人生を、ただ移ろいゆくままに移ろい、ただ消費し、ただ暮らし、ただただ腹を満たすことだけに追われる事になる。

 

旬を感じる心はとても大切だが、旬を愛でる心がなければ、大切なことに気づかないままで人生を過ごしてしまうことだろう。

それは空しく、あまりにも虚しい。

 

 

 

 

 

VとU

 

 

イタリアの高級宝飾品ブランド、ブルガリ。

1800年代に創業し栄華を極め、知らぬ者はいない程世界に名が轟いたブルガリは創業した当時、創業者の名前から社名を"BULGARI"とした。

すでに今日まで十分な時間を積み重ねて、名実ともに歴史ある宝飾品メーカーとなったブルガリも創業間もないころは「これでは重みがない。」と考えたのであろう、

会社のロゴを"BVLGARI"と定めた。

 

つまり "U" が "V" になった。

 

なぜ、UをVと表すか?については ”箔をつけたい” と言う狙いがあった。箔とは例えば”金箔装飾”することによって対外的に高級感が漂う効果。

ブルガリのこの場合の”箔”とは創業間もないブルガリに漂う「老舗感」と言っても良い。

なぜ、欧州でUがVになると老舗感が出るのかと言うと、古材アルファベット(ローマ字)には先ず小文字表記がなかった。

だから小文字表記は近代のものに限る。と言うことになる。さらにローマ字が大文字しかない時代、J , W , U の文字はまだなかった。

そこでブルガリ社は "BULGARI" を "BVLGARI" とすることで、まだ「U」が生じる前時代から創業した老舗の会社である。と言う雰囲気を出し箔をつけた。

 

同様にオーストリアのウィーンに行くと「ウィーン分離派」のクリムトやホフマンが創った「セセッション館」が建っているがその壁にはこのような声明が書かれている

 

「  D E R ・ Z E I T ・ I H R E ・ K V N S T    ,    D E R ・ K V N S T ・ I H R E ・ F R E I H E I T 」

 

やはり"U" が "V" になっている。 これもブルガリ同様箔をつけた。と思われる。

※「セセッション館」ができたのは1898年だからブルガリの創業(1884年)よりも十余年ばかり新しい。 

ちなみにセセッションのモットー「Der Zeit ihre Kunst, der Kunst ihre Freiheit 」は「時代には芸術を、芸術には自由を」と言う意味です。

 

この時代(1800年代後半、これから世界がモダンに向かう前夜)にレトロ感。つまり懐古主義があったと言う査証として見ても、この二つの事実は面白い。

 

ちなみになかったアルファベット「 J , W , U 」について、"J" は "I" を使い、"W" "U" は"V"で代用した。だから当時 JAPAN も IAPAN (ヤパン)と表記された。

街に出て欧州のブランドのロゴにVと言う”箔”を見つけるのも面白い。ただし欧州の本当に古い教会や神殿へ行くと本物のVに会う場合も少なくない。

欧州へ行くときには、ぜひこの辺の目線を持って建物やロゴを見て回ると面白いと思います。

 

 

 

 

 

ジョセフ アルバス

 

ジョセフ アルバスの残した" AT THE BEGINNING , THE MATERIAL STANDS ALONE "は今持って名言だ。

僕は長いこと素材屋で働いていたので、インテリアや建築を考える時には、いつも最初に素材から入る。

新しい空間の為に点と線で描かれるブループリントに、素材や仕上げの項目が入るのは概ね最後だ。ところが意匠を決定付けるのはデザインでありそうで意外と素材だったりする。逆に言えば、補完要素であるはずの素材が主役になった時、デザインは素材のポテンシャルを補完する為にあることになる。

 

各々の素材には表現力と言うポテンシャルが備わっている。木は木として、金属は金属として、プラスチックはプラスチックとして大いなるポテンシャルを持っている。

表層を飾る意匠としてのみ選ばれた「木のような塩化ビニール」や「金属のようなプラスチック素材」は、経年変化とともに素地が露わになり、素性が明らかになる。

露わになると、そこに恥ずかしさが伴う。衆目に晒され素性が明らかになった擬似素材たちは頬を赤く染め、目を顰める。見ているこちら側も辛いので目を背けたくなる。そうならない為には、木は木としてプラスチックはプラスチックとして各々にしかできない仕事場を与えて経年変化しても恥ずかしくない姿で佇むのが好ましい。

 

その為には「まず、はじめに素材ありき」でそれを始めることが肝要だ。だから素材と触れ合って素材の声に耳を傾ける必要がある。

ここからはフィクションだ。

 

「君はどうなりたいの?」とオーク材に話しかける。

「僕はオイルを纏うのが好きなんだ」とオーク材は喋り始める。

「オイルは僕の導管に入ってきて僕がもっとも美しく見えるようにしてくれる。その前にサンダーも忘れないでくれよ。できれば最低でも360番手のサンダーで優しく掻いてくれ。現場は男っぽいところがいいな。メープルを選ばずに僕を選んだんだろ。だったらそこは男っぽい空間なはずだから」

 

そんな会話が繰り返される。

そうすると完成され、形を整えられたオークは正装したようにピシッと決まった佇まいで、そこで活躍する。「ここにふさわしいのは僕以外にないだろう」そんな顔で静かに誇りを持って佇む。時間が経ち、年老いたオークはそれでもピシッとした佇まいのまま、より一層の渋さを纏ってオークにしか出せない味わいを放つ。

 

「まず、はじめに素材ありき」

 

で始めると、その場所は最後まで良い佇まいを維持する。

その上、時間が経てば経つほどその佇まいは他を圧倒する質感をもたらす。素材を補完したデザインは素材のおかげで、いつまでも古くならずに受け継がれる。

逆を言えば、デザインを補完する為に使われた素材はデザインの風化に抗えずに、ついにはデザインと一緒に心中し「過去のものへ」となってしまう。

 

これは建築やインテリアの世界だけでなくシェフの世界においても同様の結果を生む。

素材ありき。で料理されるものはどれもシンプルで飽きがこない。ソースで誤魔化すことなく素材の味が持つポテンシャルを引き出す料理はどこの国で提供しても受け入れられる。スシやサシミが世界で評価されたように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界で初の試み

 

THONET (ミヒャエル&アウグスト)がデザインしたno.14とno.30の椅子にリノリウムの座面を採用。これは世界で初の試み。

チェコ共和国ビストリッツェ(旧トーネット工場)で制作。

 

この椅子は想像を超える潜在能力を持っている。なぜならば160年以上も昔に作られたデザインなのに、それを少しだけマイナーチェンジ(アップデート)する事によって現代社会を取り巻く状況にピタッと呼応してくる。160年も経てば通常デザインは陳腐化してくる。それなのに改めて見直すと新鮮にすら見えてくるこの椅子は、例えばPCや携帯電話を中心とするモバイル製品が幅を利かす現代社会において、その幅を利かす製品と引けを取らずにバランスよく同居できるインテリア性を備えている。

普遍的な意匠をしたこの椅子の座面にこれまた150年前に開発されたリノリウム素材を対応させるだけで、古いはずのものが、新しいものに変わり、21世紀に興った道具たちと良い感じにマッチングする。

インテリアの基本はバランスであり、マッチングの妙なのでライトウエイトになった現代のファッションや家具、そしてライフスタイルに対して、この椅子は非常に良い関係を保てる。

過去、普遍性を帯びた様々な製品が登場したが、惜しくも多くの製品たちが去って行った。そんな中、この椅子は時流のトレンドと言う風雨に曝されても全くヘタレない普遍性を保ち続けている。

8月初旬、日本に到着して以来このサンプルたちは日々ハードな使用状況下でのテストを行っていて、その試験を経て、改良点があれば改良した上で、2019年に製品化し輸入します。

 

 

 

 

 

マイケル

 

 

2018年現在、「マイケル」と言って思い浮かぶ著名人も少なくなった。

かつてはアメリカNBAバスケットボールのスタープレイヤー、マイケル ジョーダン。F1レーサーのミヒャエル シューマッハ、アメリカン ポップスのスーパースター、マイケル ジャクソン。 20世紀には多くのマイケルが活躍した。それより2世紀以上の昔、家具の世界でも大活躍したマイケルがいた。

その人の名はマイケル トーネット。トーネットはドイツ人なのでミヒャエルと言ったりミカエルと呼んだりもした。

 

彼はドイツで生まれて家具工房を興した。最初は借金ばかり背負って仕事を続けていたが、自ら作るプロダクトに絶対の自信を持っていたに違いない。ドイツで仕事を始め、自身が考えた工法を役所に特許申請するも当時のドイツでは許可が下りず、借金は嵩むばかり。それでも彼は製品を信じて改良に改良を重ね、作り続け、ある日展示会に出店した。 

すると隣国オーストリア帝国のお偉い方の目に彼の製品が止まった。

 

「マイケル、ドイツで食えないならウィーンにおいで」

 

と言って彼はマイケル トーネットに路銀と馬車を準備してくれた。考えた末、マイケルはウィーンへと旅立った。1842年のことだった。

マイケルは1796年6月2日生まれなので、この時すでに46歳。そこから彼の第二の人生が幕開いた。ウィーンでは彼の工法の特許も承認が下り、順調に仕事を増やして行きそしてウィーンに来て10年が経った1852年。従業員数42人を従え、翌年の1853年。57歳になった彼は「トーネット兄弟社」を発足。5人の息子たちを経営陣に加えた。

1856年になると彼らトーネット一族はついに念願のオーストリアの市民権を得て、この年マイケルは60歳を迎えた。それから3年後の1859年。マイケルはこれまでにない最高の椅子を現在のチェコ共和国で作り上げた。それがチェア ナンバー14。この椅子はこれまでに世界で2億脚以上売れたと言われている名作の中の名作椅子となった。

彼は原材料となるブナの原生林を求めて、ウィーンからチェコ共和国へと深く分け入り、コーリチャンと言う場所に工場を設け、そこで量産化を図った。そして、研究と開発、さらに生産までをも担う、彼が夢にまで見た最高のファクトリー兼ラボラトリーを同じくチェコ共和国のビストリッツェに設けた。

 

僕はマイケルのことを全て知ろうと思い、ウィーンやプラハの古本屋まで足を運び文献を探した。ところが、マイケルのことを書いた書物に出会うと、どの本の挿絵も、凛々しい髭を蓄えた紳士然とした彼の写真が使われていた。ウィキペディアでミヒャエル トーネットを検索しても同様の顔写真が載っている。

これを見た人々はマイケルを成功した実業家のように見ることだろう。しかし僕の印象は違っていた。

マイケルの死後、三男のアウグストがビストリッツェに「ヴィラ トーネット」を建てた。そこの壁面にはマイケルのレリーフが埋め込まれている。それを見ると、そこには作務衣をまとい、片手にブナの角材を抱え、厳しい眼差しで仕事を行なっている職人の姿があった。僕はここを訪れて、このレリーフにあるマイケルを見た時に、「やっぱり!!これぞマイケルだ。」と膝を打った。あの書物にあるマイケルは後世の世間が持つ幻想であって、実際のマイケルはこのようだったはずだ。と一人合点がいった。

 

マイケルは1869年の秋、さらなる事業展開のためにハンガリーの森林へ視察旅行へ出かけ、そこで体調を崩し帰国した後、1871年の3月に息を引き取った。

最後まで研究と開発に明け暮れたマイケルは74歳にして亡くなる直前まで、多くの新作デザインを考案し、素材の手当をつけ、器具を開発し、跡取りまでも育てていた。

 

ウィーン中央墓地には、トーネット ファミリーの立派なお墓がベートベンの斜向かいに佇んでいる。ベートーベンの隣にはモーツアルト。

そして1930年にトーネットで発売されたchair no.811をデザインしたヨーゼフ ホフマンの墓地もまた、トーネットからわずか数メートルの場所にある。なんともウィーンらしい墓地であった。

 

世界中で今日も作られる椅子。 世界中の椅子に影響を与えたマイケル トーネットの作った椅子。もし、マイケルの椅子を手にする事があったら椅子の向こうに生涯を椅子に捧げた男のことを思い出して欲しい。努力家。天才。様々な呼び方があるけども、マイケルは、チェコ共和国の片田舎にあるビストリッツェの工房で、ひたすらモノと対峙し、デザインとバランス、そして曲木の可能性を追求し続けた職人。求道者であったと。

 

 

 

 

C H A I R と C H A I R  M A N とアカシアの木

 

 

チェアマンという言葉を、なじみを持って聞き始めたのは、およそ三十年前。サッカーJリーグが開幕した1990年代に、その組織の代表に対して呼び始めた事からその名がメディアに浸透した。

「川淵チェアマン、今後の展開はいかがですか?」などとアナウンサーは呼びかけていた。

チェアマン?

一体全体何を持ってチェアマンが組織の代表者たるのだろうか?それよりも、どうして組織の代表者がチェアマンと呼ばれるのだろうか?実に興味深い謎であった。

『チェアマン』、すなわち椅子に座る者。

 

チェアマン(代表者・権力者)とチェア(椅子)の間にある関係を紐解くためには、まずはその歴史から追いかけるしかない。

今、この世に現存する最古の椅子はどこにあるのか?これはエジプトの王妃が持っていた椅子で現在エジプト考古学博物館に収蔵されている。と言われる。がしかし、カイロにあるこの博物館は非常に古く、老朽化が進んだため、新たに博物館をギザに作り、これを2015年に完成させ、エジプトのお宝すべてをここに保存し、今後1000年間に渡り、この観光資源で食って行こう。とエジプトは画策した。もちろんそこに日本も乗っかった。

 

 

ご承知の通り『総工費の半分は日本による円借款を供与』というニュースが数年前にメディアに流れた。これにより皆の知るところとなった。万が一、建設費が未回収の場合でもエジプトの財宝が担保となるのである。さすが抜け目のない我が国である。さて、では2016年現在、この世界最古の椅子は新博物館にあるのか?というと2016年現在になっても新たな博物館は諸事情によってまだ完成されていない。だから世界最古の椅子は、まだカイロにあるのではないか?と推測される。

 

ツタンカーメンの黄金のマスクらと一緒に保管されている椅子。誰しもが一度は見てみたいと思うものである。ところで当時椅子はどのような素材で作られていたのか?いや、それよりも一体どのくらいの人が椅子に座っていたのか?尽きない興味は、そのどちらにも及ぶ。まず、視点は材料へと向かう。当時のエジプトにはどのくらい木が生えていたのか?

答えは「わずか」。であった。砂漠の国エジプトである。木があったとしてもそれは常に日常の生活に密着していた。まず果実を得ること。次に日陰をもたらす安息の場を作るということ。この二点 のために木は生息していた。

ゆえに『家具のための木』などは、当時としては考えられないほどの贅沢品であり、特に家具で使えるようなハードな木は希少性の高い超高級品であった。

それでも権力者はその証として椅子を作り、椅子に座る者となり。財力と権力を誇示したのである。

 

ではこの椅子には一体どのような素材が選ばれ、使われたのだろうか?この現存する椅子の製造は紀元前2000年頃と言われる。ものすごく古いのである。当時、木といえばイチジクの木を使っていたという。しかしイチジクの木などヒビ割れやすく、耐久性も低く、とても家具向きとは言えないのである。ではチェアマンが座るような高級な椅子には一体どのような素材が使用されたのか?

時代を追って考えてみたい。モーセの頃、(旧約聖書によると)彼らユダヤ人は神にもらった十戒を忘れないようにするために石に刻み、その石板を大切に保管するため木

箱に納めた。この木箱すら、神によってサイズ、デザイン、素材が指示された。サイズは長さが1300㍉、幅と高さは800㍉。豪奢な装飾が施され持ち運びできるような仕様になっていたという。この箱は、スピルバーグ監督製作、ハリソン フォード主演で有名になった映画、インディージョーンズに出てくるあの『失われたアーク』の事である。

この聖櫃(アーク)は無垢のアカシアでできている。虫に強く、硬くて丈夫。この当時のエジプトでは最高級の素材である。

何と言っても神が選んだ素材。なのである。これから考えると、それ以前の時代にこの地域で最高級材として使用されたであろう木材はアカシアであった。と考えられる。

 

その後、数千年の時を経て、アカシアの木は遠くアメリカにも渡り信心深いインディアン達にも達した。引っ込み思案なインディアンの若者達は恋人に愛を告白するのにアカシアの花

を使ったという。「アカシアの花」の意味は、愛の告白なのである。この花には「秘密の恋」という花言葉もある。

 

さて、アメリカのインディアンたちが、恋のために使ったアカシアの花。遠くエジプトで、今からはるか4000年以上前、王から贈られた「王妃に与えられた椅子」にもアカシアが使われていた。アカシアという素材は、時に権力者の象徴たる椅子となり、時に十戒を守る聖櫃となり、また時には花をつけ、恋を実らせるギフトに至った。

 

アカシアの素材でできた椅子に座り、テーブルにアカシヤの花を添え、そこで好きな人に愛を打ち明ければ、きっと彼女は首を縦に振ってくれることだろう。

ただし、その結果築かれた素敵な家庭で、未来永劫チェアマンでいるのはあなたとは限らない。なぜならば、彼女もまた「椅子に座る者」なのだから………………

 

 

 

 

 

 

 

 

近代の椅子の歴史 1800-1950

 

 

 

F r e u d e   A m   F a h r e n   (駆け抜ける歓び)

 

日本にもたくさんのドライブコースがある。

先日、横浜から羽田空港ー福岡空港と飛行機を乗り継いで、九州の由布院へ向かった。目的地は老舗の宿「亀の井別荘」。 福岡から途中、由布岳を眺めながら走るロング・アンド・ワインディング・ロードやまなみハイウェーを抜けた。

同じく九州の阿蘇山周辺、宮崎の海岸線。そしてこの由布岳に通じるやまなみハイウェーは僕にとって九州で最も景勝の地と言えるドライビング コースで若い頃はオートバイでよく走った。

この道を福岡空港で借りたマツダのコンバーチブルカーで走った。車の性能はともかく幌を開けて走る楽しさと喜び。ドライビング プレジャーを肌で感じた。

 

子供達に「車を描いて。」と頼むとワンボックカーを描いて「できたー!」と言う時代。こんなスポーツカーに将来市場性などはない。と言う声もある。

いつから日本の男たちは家族におもねるようになったのだろうか? ワンボックスカーは水道や電気の修理屋さんが、その利便性を好んで乗る車であって、決して自家用車ではなかった。いつの間にか便利な道具としてだけの対象になってしまった車達。九州のやまなみハイウェーをコンバーチブルカーで走る喜び。こんな喜びを味わうこともなく果てていく人生に値があるとは到底思えない。幌を開けてキングス オブ コンビニエンスを聞き、エチオピア コーヒーを飲みながら、そこを走ると今までと違う世界が現れる。

このフィーリングを味わうともう元には戻れない。空の青さと自然の緑。風の音、光の差す輝き。わずか一時間のドライブは、ずっと続くエクスタシーと言っても過言ではない。

 

複雑に、慎重に、踏み外さないように人生を生きても、人は皆老い、齢200年も持たない。

僕は今年、亡くなった父親と同じ年齢になった。だからこの先の僕の人生はギフトだと思っている。生きている間に、体が元気な間に、気持ちがエモーショナルなうちに、これまでやろうと思ったことをすべてやろうとドライブ中に思った。

 

そしてとにかくこう叫びたかった。

 

「風、気持ち良い!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 vienna

 

オーストリアのウィーンに行った。 最大の目的はマイケル トーネットの御墓参り。

彼が作ったビストリッツエ工場に、向かう前に、どうしても彼の墓前に立ち、話がしたかった。

雪の舞う、ウィーン中央墓地は0度。途中、ヨセフ・ホフマンのお墓やベートーベン、モーツアルトのお墓にも寄った。日本でも坂本龍馬や千葉周作、勝海舟や西郷隆盛、高杉晋作といった僕の中の英雄達の御墓参りは欠かさずに行った。

お墓はもちろん(僕の頭がおかしくない限り)何も語りかけてはくれない。でも墓前で手を合わせ祈ると、なんらかの啓示がが降りてくる。それはどこのお国の墓でも共通していて「頑張れ」と言う一言だけだった。

 

ウィーンの街は過去旧オーストリア帝国の首都であったために華やかな文化によって興っている。パリよりも古い、カフェ発祥の街でもある。

その上、曲木椅子はここが発祥の街だ。これを使ったカフェは街のあちこちに点在し、歴史を忍ばせる。そして立ち寄ったウィーン応用美術館にはトーネット コレクションが溢れていた。

東欧にはウィーン意外にもプラハのような素晴らしい場所がある。  彼らの多くの文化が日本に紹介されて二国の関係が深まれば、これは幸いなことだ。

 

 

 

 

 ウィーン応用美術館

 

オーストリアのウィーン中心地にある応用美術館。

開館前から美大生らしき学生が並んでいたここにTHONET歴代の椅子が収蔵されています。

スクリーン越しに光を照射し影によって椅子のフォルムを見せる陳列の仕方はトーネットチェアの独特なフォルムならではの見せ方でした。ウィーンの街中にあるカフェには今も新旧様々な仕様のトーネットチェアが置かれていて、街の景観と椅子の融和がこれまた様々なインテリアデザインによって行われています。美術館に並ぶ”ミュージアム チェア”が新品で今も手に入り、カフェや住宅で普段使いのように使用されている。歴史を超越した椅子は実に長寿です。流行と言う時代の風雨に晒されても価値が下がらない。値があるものとはそういったモノの事をいうのでしょうね。