文明人と野蛮人

 

 

これは僕の中の定義だ。

何も考える事なく、生活拠点にある近場の物で済ませる生活様式。これを好む人を僕は文明人と呼んでいる。全ては文明によって作られた便利さと合理主義の産物。ファストファッション、コンビニ、Uber eat、ロードサイドのファミリーレストラン。トヨタの自動車、台湾製の自転車、数えあげればきりがない。

グーグル検索に、アマゾンのショッピング、FacebookのSNS。文明の力とも言える、大量の消費者の為の大量のサプライチェーン。全ては、手を伸ばせば届く距離にあり、あえて探す必要もないほど、身近に存在する。便利この上ない代物だ。

 

逆にHAND MADE(手作り)や、ONE OF THE KIND(一点もの)、MADE TO ORDER(オーダーメイド)と言った個人向けのアルティザン的消費活動は、もはや、なりを潜めたと言っても良い。故にそれらが、一体どこで手に入るのかもわからなくなってきてしまった。

 

しかしながら、そんな時代になってもレコードを廻して音楽を聴き、コーヒーをミルで挽いてドリップしたり、ハンドメイドのセーターを探したり、古本屋に出かけてレアな古書を買ったり、マニュアル式なのでギヤチェンジやクラッチ操作が大変なオートバイに乗ったりして日常を過ごしている人がいる。

文明人から見て、極めて異質な行為。すなわち、彼らの事を「野蛮人」と僕は呼んでいる。しかして、野蛮人の暮らしはモノを大切にする。そしてその生活要式は実にサスティナブルだ。脚繁く街に出かけ、中古レコード屋や古書屋を回り、古着屋で買った洋服をこよなく愛し、自然の実りであるコーヒー豆を乾燥させ、煎って砕いて飲んでいる。面倒なのに、遠くまで探して見つけて手に入れる。野蛮人は労力をかけることを惜しまないのである。

 

 

明かに文明人と野蛮人の暮らしには隔たりがある。果たして文明人と野蛮人の相克(そうこく)は今後も続くのであろうか。

僕はただ気持ちが良い暮らしがしたい。そうなるとその暮らし方は必然的に野蛮人の暮らし。と言うことになろう。そしてその暮らし方とは、最初からマイノリティであると考えれば悲観的であることもない。

 

栄養の無い野菜や、繊維の硬いお肉、化学素材で出来たサプリメント、合成着色料や防腐剤で出来た様々なお菓子。文明人の暮らしを支えるに必要な、それらの便利な製品は、科学と共にやってきて進化と共に変貌を遂げた。文明人というマジョリティが作る世の中でこれだけは断言できる。それは文明人すぎる文明人が作るもので「痺れるほどに面白い物や美味しい物」は存在しない。ということだ。それは平均値(=大衆)を狙って作られるものなので、魅力がないのは当たり前だからだ。そしてあたらしいものが生じるとすぐにそれらは忘れさられてしまう。

今の世を振り返ると、実に文明社会となったことで多くの人が文明人として暮らしを立てている。でも、その暮らしとは、効率性と利便性。科学の進歩の上に立脚して出来あがっている。もっというと、効率をドンドン高めると、世の中はどんどん苦しくなって行き、利便性を高めると、世の中はどんどん退屈になってくる。

 

科学と共にある文明人の暮らし。

科学には学習できる頭(AI)があるが、野蛮人の様なエモーショナルさを受容する心は残念ながらない。  心の持つ最大の機能は直感力にある。

この直感力こそがまだ見ぬ形の無い(前例の無い)モノを未来において創造し創作する。ワクワクするモノは心の力によって生じる。それは自然が持つ力。

自然と共にある野蛮人の暮らしから、そんな物は産み落とされて行く。世の中を少しでも面白いものにしたければマイノリティを保存する必要がある。

 

野蛮人は(生き抜く為に)いつも面白いことを考えているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

Five Cornered Square

 

 

四角いことがスクエアなのに五角形をしたスクエアってなんだ? と思って調べるとスクエア自体の意味を取り間違えていた。スクエアは四角形という意味だけどこれがスラングになると「堅い奴、ウスノロ、トンマ、アホ」という意味になる。

さて、このFive Cornered Squareという言葉は黒人作家チェスター・ハイムズの「ピンク・トウ」という小説で彼が初めて使った言葉で五角形のスクエアというのは、「あまりにもスクエアなので四角形が五角形になった。」つまりはスクエアの上をいくスクエアという意味になる。アメリカ的にはヒップ(HIP)な奴の真逆にスクエアな奴がいる構図になるが、1960〜70年代のアメリカ社会が「それはヒップか?それともスクエアか?」という事を真顔で考えその行動様式や嗜好を表にして区別したり、いろいろな手法で考察していたのがじつに面白い。HIpstarという言葉はアメリカでは今も使われているし、Hipstarの死。といった表現も、いまなお健在だ。世界の面白い都市を俯瞰してみてもなかなかHIPには難しい時代が来ているように思われる。ドラッグはもちろんタバコに対してもアゲインストな風が吹く時代、ヒップな行為はもはやヒップではない。といった論調も幅を聞かせるようになってきた。そこでHipstarの死。と言う表現をよく目にするようになった。

 

おかげで面白かったモノは過去の中に探せても未来に向かって花開く予感はもはや無くなって来た。ぼくが思うに、いまぼくが大学生をやるならば、間違えなく理系ではなく文系。それもバリバリの文学部で学びたい。と思う。世の中には便利なモノ、スマートなモノは沢山あるしこの先も洪水のように出現するだろうけど生活と道具を結びつけるための言葉や表現があまりにも足りていない。だから「安いですよ!売れていますよ!」といった六角形をしたスクエアな広告で街が溢れてしまった。お陰で逃げ場のない現実は洪水のように溢れ、生きることの非凡さを平凡で意味がないものへと変えてしまった。生きる上での問題は社会で起きている暗いニュースじゃなく外は雨なのに「傘がない」という井上陽水的シュールさにあるのに。

 

言葉というのはデザインと一緒で世の中を変える力をテクノロジー以上に持っている。それでも全盲の賢者となった理系崇拝者はテクノロジーこそが世の中を変えると思っている。TVから離れて、PCの電源を落とし、古い街を歩いて古本屋やアナログレコードがある店に行ったり、ハンドドリップで淹れる珈琲屋で静かに本を片手にコーヒーを飲んだりするとHipな感覚が芽生えてくる。だからニューヨーク、ロンドン、パリはもとよりベルリンやヘルシンキ、コペンハーゲンや東京の路地裏には今もイカした珈琲屋があり、多くのヒップな人で溢れている。

 

コスモポリタンの記者ウォルター ミードがこんな面白い事を言っている。

 

ヒップは夜の時間が好きだ。朝九時から午後五時まではやりきれない。その間の8時間というのは、つまり働いて報酬を受け、その金を浪費しているスクエア達の時間だから、スクエアのための時間。そんな時間で埋まった世界は荒涼としていて刺激がない。見て回る気にもならない。スクエアは他人に毒害を与えないようにできている。彼らは世界を支配していると思って、いい気分になっているだけでなくその世界で起こる全てのことに責任観念をいだいている。ところがそういったスクエアの世界で起こることが、全て腐った最低のシロモノなんだ。困ったなぁ。戦争の行方がつかなくなったとか、それはいいアイデアだからまずは寄付金を集めようじゃないか。とか。それでも万事うまくいくのはそれがスクエアの世界だからで、世論を黙って受け入れろ、横ヤリなんか入れない方が良い、規制の制度に従えというふうになっているからだ。何か楽しいゲームをやりましょう。仲間に入れてあげるけどルールはちゃんと守っておくれ。そうしないとヒドイ目にあうぞ。これがスクエアの世界であってみんながビクビクしながらリーダーのいうなりになっている。そこから制度が生まれ大義が生まれ政府や協会や保険会社や電話局が出来上がった。そうしてそういういろいろな施設がスクエアを保護し、その中で彼らは生活をエンジョイしている。

今のところ、調子良く続いているスクエアだけどもし調子が崩れたらスクエア システムも狂いだすわけだ。スクエア自身もやってることが単調になって、このままじゃしょうがないな、もう少し目的を大きくしなきゃいけないと考えだす。すると漠然とした不安に取り憑かれ始める。それは自分が何か失っていることに気がつき始めるからだ。

 

この記事は70年代に書かれた記事だけどなんだか現代でも通用する内容になっている。

Campと言うスラングもこの時代にヒップが使った言葉で、「スタイルはなかなかいいが中身がない。」と言う場合に使われた。悪趣味を指す言葉だ。そう言う意味ではスクエアには悪いものでもよく見えてくる。だけどヒップには悪いものは悪いとしか映らない。ヒップから見ればキャンプはスクエアの病気だ。と言うことになってくる。それでも普通の人は生活のために昼間は働く事が必要なので、どうすればヒップになれるんだろう。と考えるようになった。80年代に入ると割り切ったHipstarが現れ始めた。 五時まではスクエアで過ごし、夜になればヒップへと早変わりする。そう言う人間をニューヨーカーはSwingerと呼ぶようになった。 佐野元春が歌った「夜のスウィンガー」は、このことを言っている。 面白いことにスクエアの世界にスィンガーが多くなって来た。つまり前例主義や規格、規制で出来上がった世界に疑問を持ち、あらゆる視点で自覚症状を持った人はスクエアからヒップに転向し始めたのである。

 

 

H.モーブレーはすでに1963年からスクエアな奴お断り。と言っていた。ジャズには黒人のスラングがたくさん出てくる。

 

「No Room For Squares!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メジャーとマイナー

 

今の日本を俯瞰すると「いい国だ」と思う所と「どうしてこうなっちゃったの?」という所がある。

僕はちょっとこの「どうしてこうなっちゃったの?」にスポットを当てて見たいと思う。

 

日本は元来マイナー気質な国だった。

マイナーとは音楽の用語で言う暗さ。演歌は日本の生まれだが、もっと遡れば能や都々逸、国歌の「君が代」と言ったモノから、お正月にどこへ行っても聴こえてくる「春の海」や雅楽の名曲「越天楽(えてんらく)」と言ったものまで、「暗さ」「シビアさ」「ストイックさ」と言ったどこか刹那的な思い詰めた感じが漂ってくる。和音によるものだと解説は言うけれど、その和音を作ったのもまた同じ日本人なのでこの漂う雰囲気は日本独徳の感覚と言えると思う。もちろん歴史が長い国なので基礎ができた当時の時代背景が今と異なるのは否めないが、概ねマイナー感あるものが日本だと言える。かたや欧州の特にラテン民族の性格はどうだろうか?イタリア、フランス、スペイン。彼らの中にマイナー感は漂わない。

そこにあるのは「陽気さ」「奔放さ」「享楽感」と言った底抜けに明るい感じがある。これに異を唱える事はないと思う。

 

さて、歴史を振り返れば、日本が最も元気だったあの頃。といえば1985-1995の十年間。これにも異を唱える事はないと思う。

今と何が違うのか?と言えば、この頃を生きた人間として言えるのはあの頃僕らはメジャー気質だった。と言う点に尽きる。

毎週、金曜日の夜になれば「陽気さ」「奔放さ」「享楽感」を求めて人はクールな車で、華やかな衣装を身に纏って巷に溢れ、終電など気にする事なく、この世の春を謳歌していた。多分日本史上、有史以来最高に陽気な時代だったと思う。これも異を唱える事はないと思う。

 

人々の暮らしが、メジャー感溢れる暮らしへと向かい、幸せを噛み締めて暮らしていたあの頃。

「夏休みはワイハ?それともモーリシャス?」と言った会話が巷で当たり前になり、GWになれば近場のリゾート地へ出かけ、夏休みになれば海外旅行へと出かけていた。年々車はハイスペックになり、ピークの時に、BMW318などは「ギロッポン(六本木)のカローラ」。とまで揶揄された。

秋には冬に行くスキーの計画を立て、クリスマスに宿泊する為の都内のホテルは、夏が終わるまでに予約しないとBOOKINGできないほどの活況だった。クリスマスプレゼントや花束を抱えた人々が行き交う街もそれらを援護射撃するようにデコレートされ、華やかな空気は年末まで続いた。

あの頃、日本人は非常に陽気だった。そして京楽的であり奔放でもあった。だから世の中が明るさと活気に満ちていた。

 

若者は「お洒落である事」を至上の価値とした。

デザイナーが創造性豊かに作る物を理解し、その価値を認め、また生活に取り入れた。それは服に関わらず、インテリアや家具、車、そして生活様式全般に及んだ。酒・タバコのない生活は考えられず、誰もその事を批判する者はいなかった。と同時に他者の暮らしや価値観を批判する事自体が稀有であった。

自由であり、奔放である。これはその時代を支配した空気と言っても良い。ドラッグやマリファナとは縁がなかった。そんな物など必要がないほど、音とアルコールだけで十分にトリップしていた。

 

 

今、日本はデフォルトしてしまった。と僕は勝手に推測する。

その為に元来あったマイナー気質へと戻ってしまった。多くの日本人が刹那的な生き方をしている様にも思う。

「自由」は制限され、「寛容性」は失せ、他者への攻撃性と批判精神は増大し、活動範囲は狭まり、篭りがちな暮らしへと変わりつつある。

 

もし、世界が誰かの手によってデザインされているのであれば この様な変化の後、どの様な世の中にしようとしているのだろうか?と想像してしまう。

 

1985-1995年。

日本のHAPPY GENERATIONを生きた、1975年より早くに生まれた人達は、きっと今のこの流れに抗い、あの頃の様な陽気な社会を取り戻そうとするに違いない。今の45歳以上の人間はその時代を体験しているのだから。

 

メジャー気質への最初の一歩は、

文化を愛し隣人を愛し、芸術性を生活に取り入れ、寝る間を惜しんで遊び、学び、心に滋養強壮となる物に接し、おおらかで思慮深く、時に野放図で奔放であり、陽気な事である意外にはない。その結果訪れる暮らしはダイナミックでエキサイティングな物になる。と僕はそう信じて思います。

 

楽しいですよ。その方が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13 Jan.2021

 

旅と音楽

 

2020年3月中旬、予定していた台湾旅行がコロナ禍で取り辞めになって以来、旅に出ていない。

ここ5、6年の間。つまりTSUKU-HAEを創業して以来、毎年海外のインテリア、ライフスタイルを見るだけじゃなく肌で感じようと決めてアチコチ気になる国へ出掛けて行ったが昨年は初めてどこへも行くことができなかった。

 

そんな旅に出る時、いつも音楽が一緒だった。

これは昔から変わりがない。切っ掛けは1990年代のアメリカだった。LAで車を借りると当然ラジオが付いている。当時はまだカセットテープを入れて聴くことができるレンタカーもあった。当時の僕は年に3〜4回位LAに行っていた。それも仕事で。LAでは先ずLAX(空港)で車を調達するところから始まる。LAは車がないとどうしようも無い街だからだ。レンタカー屋で車を借り、エンジンを掛けてラジオのチューニングを回す。ロサンゼルスには物すごい数のラジオ局があって、チューニングの摘みを少し回すだけであらゆる音楽にアクセスできた。とは言えチューニングしているとかなりの確率でユーリズミックかフィル コリンズ、ブルース スプリングスティーンあたりにヒットする。そうすると僕はチューニングはそのままにしてボリュームを上げ、車の窓を全開にしてまずはホテルに向かった。トーランスにあるマリオット レジデンス・インを僕は定宿にしていたので、空港からは南へと向かう。

ROUTE 105 から405 ( SAN DIEGO FWY ) に乗り換え、HAWTHORNE BLVD.を南下するとあっと言う間にトーランスへ到着する。そして滞在中はそこを起点にサンディエゴやラスベガスまで車で走った。走っている間常にラジオからHOTなナンバーが流れていた。音楽アプリどころかまだ携帯電話がようやく普及し始め、i podも無い時代。音楽はもっぱらラジオだった。道中、全米で今ヒットしている曲がヘビーローテーションで流れたり、80年代のヒット曲や70年代のダンサブルな曲が流れたり。何時間も車を運転しなければいけないアメリカで、このラジオから流れる音楽には救われた。

 

そして旅先で音楽ソフトも調達した。宿の向かいにはデル・アモ ショッピングセンターがありボーダーズと言った本やカセットテープ、CDを売っているお店があった。 

流石にレコードを買って持ち帰ることは稀にしかなかったが。それでも行くたびに新しい音楽と出会った。帰国して持ち帰った音楽を聴くと出張先で出会った人の顔や表情、景色が蘇る。音楽を旅の道連れにする最大の理由は、旅先で起こった出来事を音と一緒に脳に記憶することなのかもしれない。それ以来、僕は旅に出る時音楽を帯同するようになった。

今では世界中の音楽が時差なく聴くことができる。その上音楽ソフトは小さな携帯電話の中に全ておさまり、音楽を持ち運ぶ重量感などはもはや感じることもない。とは言え、この場面でこの曲が聴きたい。という場面もある。ラジオによるシャッフルされた音楽も良いが、自分の選曲で音楽をループさせるとその景色はより鮮明に脳に刻まれる。

 

早く日常を取り戻し、また旅に出たい。

遠くへ行くことができない間は、オートバイに乗ってできるだけ日本を旅したい。もちろん音楽を旅の道連れにして。